「今週中に基本合意を出さないと、他社に持っていかれる」——M&Aの話が来たとき、社長の頭の中はそれだけで埋まっていた。
相手は広島のITベンチャー。従業員6名、代表者が全株式を保有する小さな会社だった。WEB面接のプラットフォームを開発していて、競合他社も3〜4社が入札に手を挙げている。希望売却額は1億円。現在の経営者は少なくとも2年は残ってくれるという。話の筋は悪くない。
だが、そのとき社長が顧問弁護士に連絡を入れたのは、基本合意の提出期限まで残り5日のタイミングだった。
「急いでいる」という状況が、M&Aの判断を狂わせる
この相談を受けた弁護士が最初に感じたのは、スケジュールの異常さではなかった。それよりも、依頼内容の言葉に引っかかりがあった。「法務リスクと労務リスクがないかの確認をお願いしたい」——その一文だ。
確認をする、という言葉は、どこかに「たぶん大丈夫だろう」という前提を含んでいる。問題を発見しに行く構えではなく、問題がないことを確かめに行く構えだ。M&Aのデューデリジェンス(DD)において、この姿勢の違いは後になって大きく響く。
入札方式のM&Aには独特の圧力がある。「他社も手を挙げている」という情報は、判断を急がせる。本来なら2〜3週間かけて精査すべき法務DD・労務DDが、「今週中」という言葉の前で半日に圧縮される。この圧縮が、潜在債務を見えなくする。
しかも、先方の担当者自身が「勤怠管理がフワッとしている」と認めていた。これは警戒情報ではなく、むしろ確定的な危険信号だ。勤怠がフワッとしている会社には、ほぼ確実に未払い残業代が眠っている。
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弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。
弁護士が基本合意書を受け取って最初に確認した3点
顧問弁護士に共有された資料を前に、弁護士がまず確認を求めたのは次の3点だった。
① 過去3年分の給与台帳と出退勤記録
勤怠が「フワッとしている」という先方の自己申告は、裏返せば「残業時間を正確に把握・管理していない」という意味だ。労働基準法37条は、法定時間外労働に対して割増賃金を支払う義務を使用者に課している。この義務は、会社が変わっても株式譲渡のスキームではそのまま引き継がれる。従業員との雇用関係ごと買うのが株式譲渡の構造だからだ。もし過去に未払い残業代が積み上がっていれば、買収後に請求される可能性がある。数百万から、管理職の定義を誤っていた場合などは1,000万円を超えることも珍しくない。
② 係争・クレーム・行政指導の有無
小規模なIT企業でも、元従業員からの労働審判や、取引先との契約トラブルが水面下で進んでいることがある。買収時には表に出ていなくても、株式譲渡後に当事者が変わったと知って動き出すケースがある。
③ 知的財産権の帰属
WEB面接プラットフォームというプロダクトを保有している会社だが、そのシステムの著作権・特許権が本当に会社に帰属しているか。個人の開発者が社外で作ったものを「事実上使っている」だけのケースは、IT系の小規模企業では頻繁に起きる。買収後に元開発者から権利を主張されると、コアプロダクトが使えなくなる。
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法務DDで何が見えてくるのか——労働基準法37条が「隠れ債務」をつくる仕組み
「うちは小さい会社だし、残業代なんてそこまで問題にならないだろう」。買い手側の社長が、対象会社の労務リスクを軽視するとき、たいていこういう感覚がある。しかし、会社の規模と未払い残業代の額は比例しない。
労働基準法37条が定める割増賃金の時効は、2020年4月の法改正以降、原則として5年(当面は3年)に延長されている。つまり、買収前の数年分の残業代が、買収後に請求対象となりうる。
株式譲渡では会社そのものを買うため、その会社が抱えていた債務——含み損、未払い残業代、隠れた税務リスク——はすべて買い手が引き受けることになる。これが株式譲渡スキームの本質的なリスクだ。
ここで重要になるのが表明保証条項だ。M&Aの最終契約書には通常、売り手が「契約時点での事実(財務状況・係争の有無・労務リスク等)を保証する」条項が盛り込まれる。売り手が「未払い残業代はない」と表明保証したにもかかわらず、買収後に発覚した場合、買い手は損害賠償を請求できる。
しかし問題は、DDで確認していないと、表明保証違反を主張する土台が弱くなる点だ。「確認しなかった買い手にも落ち度がある」という主張を相手方にされるリスクが生じる。DDは単なる情報収集ではなく、表明保証の有効性を担保するための法的な準備でもある。
この事例でいえば、先方が「勤怠がフワッとしている」と自認していた時点で、DDの優先順位は明確だった。弁護士はその一言から、労務リスクの精査を最優先に置くよう社長に伝えた。
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顧問弁護士が基本合意の前に動いていたら、何が変わっていたか
この相談で弁護士に連絡が入ったのは、基本合意提出の5日前だった。それでも対応できた。だが、もし顧問弁護士が仲介会社からの打診があった時点から関与していたとしたら、何が変わっていたか。
まず、スキームの選択が変わっていた可能性がある。「株式譲渡でホールディングスが全株を取得する」という前提で話が進んでいたが、対象会社に潜在債務のリスクが高い場合、事業譲渡スキームへの切り替えを検討できる。事業譲渡であれば、引き継ぐ資産・負債を選択できる余地が生まれる。ただし事業譲渡にも別のリスクがある。会社法22条1項は、商号を続用する事業の譲受人は前会社の営業によって生じた債務について弁済する責任を負うと定めており、「名前をそのまま使い続ける」だけで前会社の債務を負う可能性が発生する。スキームを変えれば問題が消えるわけではなく、それぞれのリスクの質が変わるだけだ。この判断は、法律の知識なしにはできない。
次に、DDの設計が変わっていた。5日という時間的制約の中で、何を最優先に確認し、何をクロージング後の条件として売り手に課すか。優先順位の設計が、DDの質を決める。顧問弁護士が初期段階から関与していれば、「入手できる資料の範囲で何が言えるか」を整理したうえで、表明保証条項の文言を強化する交渉を基本合意前から仕掛けることができた。
最後に、基本合意書の文言が変わっていた。多くの仲介会社が提示する基本合意書のひな形は、売り手側に有利に設計されていることが多い。「DDで発覚した事実は価格再交渉の根拠とする」という条項を明示的に盛り込んでいるか。顧問弁護士がいれば、この一文を入れるかどうかを合意前に交渉できる。
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この事例で社長が変えた1つの判断軸
結果的に、この案件は追加の資料開示を売り手側に求める形でDDが進められた。勤怠記録の精査の結果、一定程度の未払い残業代リスクが見えてきたため、買収価格の調整と表明保証条項の強化を交渉した。最終的に取引が成立したかどうかよりも、社長にとって重要だったのは「自分が何を判断したのか」を言語化できたことだった。
この社長が顧問契約後に変えた判断軸は、シンプルだった。「M&Aの話が来た瞬間に弁護士に共有する」——それだけだ。
仲介会社が提示するスケジュールは、買い手の検討時間ではなく、仲介会社の成約スケジュールに最適化されている。「他社も手を挙げている」「今週中に」という言葉は、判断を急かすためのフレーズとして機能する。それが悪意からではないとしても、買い手側の法務リスクを精査するには時間が足りなくなる。
顧問弁護士がいる意味は、「揉めたときに動いてもらう」ことではない。「話が来た時点で一緒に考えてもらえる」ことだ。証拠は紛争になってから急には作れない。同様に、DDは基本合意後に急いでやっても、確認できる範囲は限られる。早く動くほど、選択肢が増える。
M&Aの案件は、仲介会社が「進めやすい方向」に動いていく力学がある。その流れに乗ったまま最終契約を結ぶのか、それとも途中で一度立ち止まって「自分たちにとってのリスクは何か」を確認できるか。その差を生むのが、顧問弁護士の存在だ。
M&Aにおけるデューデリジェンスは、弁護士が知識を見せる場ではない。社長が「この取引を本当にやるべきか」を判断するための材料を揃える場だ。その判断を奪う人ではなく、判断の質を上げる人——それが顧問弁護士の役割だと、ブライトは考えている。
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