会社を売る、あるいは買う。その決断をした瞬間から、社長の頭には「本当にこの話は正しいのか」という不安がずっとついて回ります。相手が誠実そうな人だとわかっていても、決算書の数字が本当に正確かどうか、隠れた負債はないか、従業員との間に何か問題を抱えていないか——言葉にならない不安が積み重なる。
M&Aが完了してしばらく経ってから、「そんな話は聞いていなかった」という問題が出てくることは、決して珍しいことではありません。売り手が嘘をついていたわけではなくても、伝え漏れや認識のズレが、買収後の大きなトラブルに発展することがある。そのリスクを和らげるための仕組みが、W&I保険(表明保証保険)です。
この記事では、W&I保険とは何か、どんな場面で役に立つのか、そして社長として何を判断すればいいのかを、できるだけ平易に解説します。
W&I保険とは何か——「約束が守られなかったとき」のための保険
M&Aの契約書には、売り手が「この会社にはこういう問題はありません」と宣言する条項が必ず入ります。これを表明保証といいます。たとえば、「財務諸表は正確です」「重大な訴訟は抱えていません」「労務上の問題はありません」といった内容です。
しかし、買収後にその表明保証が嘘だった、あるいは知らなかったことが原因で問題が発覚したとき、買い手は売り手に損害賠償を請求するのが原則です。ただ、これが実務では非常に難しい。相手が「知らなかった」と言えば立証は困難になり、交渉は長期化し、最悪の場合は回収できません。
W&I保険(Warranty and Indemnity Insurance=表明保証保険)は、この表明保証が虚偽または不正確だったことによって買い手が被った損害を、保険会社が直接補填する保険です。売り手に請求するのではなく、保険会社から補償を受けられるため、売り手との関係を悪化させることなく損害をカバーできます。
日本では2010年代後半から急速に普及し、現在では中規模以上のM&Aでは検討が標準的になってきています。一方で、中小企業のM&Aでは「名前は聞いたことがある」という段階にとどまっている経営者も多いのが実情です。
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なぜ「表明保証があるから大丈夫」という判断が危ないのか
【図解】W&I保険とは何か——「約束が守られなかへの対応フロー
※ 弁護士に早期相談することで、リスクを最小化できます。
M&Aの経験が少ない社長が陥りやすいのは、「契約書に表明保証条項があるから、問題が出たら相手に請求すればいい」という安心感です。しかし実務ではこの判断が通用しないことが少なくありません。
その理由は主に三つあります。
- ①売り手が支払い能力を持っていないことがある。中小企業のオーナーが売却後に資産を使い切っていれば、請求しても実質的に回収できません。
- ②損害の立証が困難なことが多い。「その問題を売り手が知っていたかどうか」を証明するのは、特に中小企業ではほぼ不可能に近いケースもあります。
- ③売り手との関係を壊したくない場合がある。アーンアウト条項(業績連動の追加支払い)がある場合など、買収後も売り手に協力してもらう必要があるケースでは、請求そのものがビジネス上のリスクになります。
こうした現実があるにもかかわらず、「契約書があれば守られる」という思い込みが判断ミスを引き起こします。W&I保険はこの構造的な問題を解決するための仕組みです。
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M&Aの前にできること——保険加入の判断タイミングと準備
W&I保険で最もよくある誤解は、「何か問題が起きてから検討するもの」という認識です。実際には、M&Aのクロージング(最終契約締結)前に加入するのが原則で、問題が発生してからでは加入できません。
加入を検討するタイミングは、基本合意書(LOI)を締結した後、デューデリジェンス(DD)が進行している段階です。DDで発見できなかったリスクに備えるのがW&I保険の本質ですから、DDと保険の検討は並行して進める必要があります。
顧問弁護士が果たす役割は、この段階で非常に重要です。具体的には:
- 表明保証条項の内容を精査し、保険でカバーされる範囲を最大化する
- 保険会社がDDレポートを精査するプロセスに弁護士が関与することで、保険引受の精度を高める
- 保険でカバーできないリスク(known issues:既知の問題)について、契約上の手当てを別途検討する
- 売買契約書の表明保証条項と保険証券の内容に齟齬がないか確認する
W&I保険は「入っておけば万全」ではなく、契約書・DDレポート・保険証券の三つが整合していることで初めて機能します。この整合確認は、M&Aに精通した弁護士が関与することで格段に精度が上がります。
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問題が発覚したとき——保険を使うための証拠の残し方
買収後に「話と違う」という問題が出てきたとき、社長がまず直面するのは「これは保険の対象になるのか」という判断です。ここで重要なのは、証拠は問題が起きてから急に作れるものではないということです。
保険会社に対して損害を請求するためには、以下の要素を証明する必要があります。
- 売買契約書上の表明保証のどの条項が違反されたか
- その違反がDDの時点では知られていなかったこと(既知の問題は原則対象外)
- その違反によって具体的にどのような損害が生じたか
- 損害額の算定根拠
これらを証明するために必要な書類として、DDレポート、売り手との交渉記録(メール・議事録)、問題発覚後の内部の調査記録などがあります。特に日常的なメールのやり取りが後から証拠として重要になるケースが多く、「なんとなく変だな」と気づいた段階でメモや記録を残しておく習慣が保険請求の成否を左右します。
問題発覚後、保険会社には通知義務があります。契約で定められた期限内に「表明保証違反の可能性がある」と通知しなければ、請求権を失うリスクがあります。社長が問題を把握した時点で、すぐに顧問弁護士へ連絡することが最初の一手です。
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失敗事例の構造——なぜ保険が「使えなかった」のか
実務で見えてくるW&I保険の「機能しなかったケース」には、共通のパターンがあります。
パターン①:保険の存在を知らずにM&Aを進めた
仲介業者やFAからW&I保険の提案がなく、クロージング後に問題が発覚してから「保険があれば良かった」と気づくケースです。中小企業のM&Aでは、保険の提案自体がなされないまま手続きが完了してしまうことが少なくありません。顧問弁護士がM&A前から関与していれば、保険の検討を漏らさずに進められます。
パターン②:DDで問題が「既知」とみなされた
DDレポートに「懸念事項」として記載されていた問題が後に顕在化したとき、保険会社から「これはDDで認識されていたknown issueだ」と判断され、カバー対象外になるケースです。DDレポートの記載ぶりと保険証券の適用範囲の整合確認が不十分だったことが原因です。
パターン③:通知が遅れて請求権を失った
「まだ確証がない」「社内で対処できるかもしれない」という判断で問題を放置しているうちに、保険契約上の通知期限が過ぎてしまうケースです。「証拠が揃ってから連絡しよう」という判断が命取りになります。問題の輪郭が見えた時点で弁護士に報告するルールを決めておくことが重要です。
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うちの会社では何を考えればいいのか——判断の軸を持つ
W&I保険について、「うちの規模でも必要なのか」と思う経営者は多いでしょう。一般的な目安として、以下の点を基準に検討することが実務上多いです。
- 取引金額:数億円規模以上のM&Aでは、保険料に見合うリスクヘッジ効果があることが多い。数千万円規模の取引では費用対効果を慎重に検討する必要がある。
- 売り手の財務状況:売り手オーナーが売却後に手元資金を大きく取り崩す予定がある場合、表明保証違反の損害を実際に回収できるかが不透明になる。
- 対象会社の業種・リスク:労務リスク、環境リスク、知的財産リスクなど、DDで完全に可視化しにくいリスクが高い業種では保険の意義が大きい。
- 売り手との今後の関係:買収後も売り手の協力が必要な場合、保険があることで売り手への直接請求を回避し、関係を保ちやすくなる。
これらの判断は、弁護士・FA・保険ブローカーが連携して行うものです。「必要かどうか」だけでなく、「どんな条件で入るのか」「表明保証条項と保険内容をどう整合させるか」を含めた総合的な検討が必要です。
社長が持つべき判断の軸は、「問題が起きたとき、誰に何を請求できるのか」を事前に明確にしておくことです。その答えが「売り手に請求するしかない」という状態であれば、そのリスクを直視したうえで判断する必要があります。
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再発防止策——次のM&Aに向けた体制づくり
一度のM&Aで得た経験は、次の取引の精度を上げる貴重な資産です。しかし、その経験を属人的な記憶にとどめておくのではなく、社内の手順として定着させることが再発防止の核心です。
具体的な取り組みとして、以下を検討してください。
- M&Aチェックリストの整備:W&I保険の検討タイミング、DDレポートの確認項目、通知義務の期限管理などを一覧化しておく。
- DDレポートの保管と活用:買収後に問題が発覚した際、DDレポートをすぐに参照できるよう保管場所・担当者を明確にしておく。
- 異変の報告ルールの設定:買収先の子会社や事業部門で「何かおかしい」と気づいた担当者が、すぐに経営陣・顧問弁護士に報告できる体制を作る。
- 保険証券の内容の定期確認:保険期間中に会社の状況が大きく変わった場合、補償内容との齟齬が生じていないか確認する。
M&Aは一度決断したら後戻りできません。だからこそ、次の取引をより安全に進めるための体制を、今から少しずつ整えることが重要です。
W&I保険に関するリスク管理は、個別のM&Aをスポット対応で乗り切るだけでは十分ではありません。M&Aの検討が具体的になる前の段階から、表明保証条項の設計・DD体制・保険の要否判断まで一貫して相談できる顧問弁護士の存在が、判断の質を大きく変えます。弁護士法人ブライトでは、企業法務部の弁護士歴平均14年以上のチームが、顧問先 141社 の実名を公開しながら、「みんなの法務部」として顧問企業のM&A法務を継続的に支えています。M&Aの機会を検討し始めた段階から相談できる体制が、もっとも確実なリスク管理の入口です。
よくある質問
- Q. W&I保険はどこで加入できますか?
国内外の大手保険会社や、M&A専門の保険ブローカーを通じて加入するのが一般的です。日本では東京海上日動、三井住友海上などが引き受けており、保険ブローカーが保険会社との交渉や条件設定を代行します。弁護士はブローカーと連携しながら、売買契約書の表明保証条項と保険内容の整合を確認する役割を担います。
- Q. 保険料の目安はどのくらいですか?
一般的に、保険金額(補償限度額)の1〜3%程度が保険料の目安とされています。ただし、対象会社の業種・リスクの高さ・DDの精度・表明保証条項の内容によって大きく変わります。数億円規模のM&Aであれば、数百万円から数千万円程度の保険料になるケースが多く、取引金額に対してどこまでリスクヘッジするかを判断材料にするとよいでしょう。
- Q. 売り手側がW&I保険に入ることはありますか?
あります。W&I保険には買い手型と売り手型があり、売り手が自らの表明保証違反に対する損害賠償リスクをカバーするために売り手型を選ぶことがあります。ただし、現在の主流は買い手型で、買い手が保険料を負担して直接補償を受ける形が一般的です。どちらの形を採用するかは、M&Aの交渉全体の中で決められます。
- Q. 中小企業のM&Aでも使えますか?
取引金額が数億円以上であれば、中小企業のM&Aでも活用されるケースが増えています。ただし、保険引受に必要なDD水準を満たすことが前提となるため、DDを省略した簡易的なM&Aでは保険加入が難しいことがあります。また、保険料が取引規模に対して割高になるケースもあるため、費用対効果の判断を弁護士・ブローカーと一緒に行うことが重要です。
当事務所が参考にした実務書
当事務所では本テーマに関する最新の実務書を継続的に確認し、顧問先企業のリスク評価に反映しています。本記事の作成にあたり特に参考にした書籍を以下に紹介します。
- 『M&A保険の実務』 — 宮崎淳平/中央経済社/2023年3月/分類:条文逐条解説書
- 『表明保証条項の実務』 — 田中亘・松下淳一/有斐閣/2022年9月/分類:学術書・体系書
- 『中小企業M&Aの法務と実務』 — 日本M&Aセンター/中央経済社/2023年2月/分類:Q&A形式の実務解説書
- 『M&Aと組織再編の法律実務』 — 西村あさひ法律事務所/商事法務/2022年4月/分類:Q&A形式の実務解説書
- 『M&Aデューデリジェンスの実務』 — EY新日本有限責任監査法人/中央経済社/2022年10月/分類:Q&A形式の実務解説書
※ 書籍内容は引用しておらず、書誌情報のみ表示しています。本記事は弁護士法人ブライトが監修・執筆しています。
M&Aの交渉・表明保証条項の設計・W&I保険の要否判断など、企業の売買に関わる法務を継続的に相談できる顧問弁護士をお探しの方は、弁護士法人ブライト「みんなの法務部」にお問い合わせください。顧問先 141社 の実名を公開しており、企業法務部の弁護士歴平均14年以上の経験豊かな弁護士が対応します。企業法務窓口:06-4965-9590(平日9:00〜18:00)
「みんなの法務部」というブライトの考え方
中小企業の社長に「専属の法務部」を持っていただく——これがブライトの顧問サービスの基本姿勢です。社内に法務部を置けない規模でも、契約書・労務・債権回収・M&Aまで日常的に相談できる体制を、月額固定で。企業法務部の弁護士歴平均14年以上のチームで、141社の顧問先と向き合っています。
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