「もう限界です。あの社員、どうすれば辞めさせられますか」
その社長が弁護士に最初に言ったのは、この一言だった。Webデザインを手がける従業員20名ほどの会社。問題のある社員を抱えてから、すでに8ヶ月が経っていた。
遅刻は今年に入ってから14回。無断欠勤も3回あった。チームのメンバーはその社員に合わせて業務を調整し、疲弊していた。社長は「何度も注意した」と言う。ただ、それはすべて口頭だった。書面は一枚も残っていなかった。
このケースは、問題社員対応でもっともよく起きる「記録の空白」という状況だ。注意した事実はある。ただ、それを証明するものが何もない。そしてその状態で「解雇」に踏み切ろうとすると、会社側が非常に不利な立場に立たされることになる。
弁護士が最初に確認した書類と、そこになかったもの
弁護士がまず求めたのは、4種類の書類だった。
- 就業規則(懲戒規定の内容と、届出の有無)
- 雇用契約書(採用時の労働条件通知書)
- 出勤簿・タイムカードのデータ
- これまで社員とやり取りした記録(メール・チャット・メモ)
就業規則はあった。ただ、懲戒に関する条文が古いままで、「遅刻・無断欠勤」に対する処分の手順が明確に書かれていなかった。出勤記録は残っていたが、口頭注意の事実を示すものは何もなかった。雇用契約書は作成されていたが、試用期間の条件が曖昧な記載になっていた。
弁護士はこう伝えた。「今すぐ解雇しても、おそらく無効になります。ただ、今から3ヶ月かければ、合意退職に持ち込める可能性があります」
企業の法律問題でお困りの経営者・法務担当者様へ
弁護士法人ブライトは、契約書・債権回収・労務トラブル・M&Aを伴走支援する「みんなの法務部」です。
弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。
労働契約法16条——「解雇できない」の法的な意味
日本では、解雇は非常に厳しく制限されている。労働契約法16条はこう定める。
「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」
この条文が意味するのは、「問題がある社員でも、一定のプロセスを踏まなければ解雇できない」ということだ。最高裁もかつて、昭和50年の判決(日本食塩製造事件)で同様の考え方を示しており、この考え方は今日の解雇規制の実質的な出発点になっている。
「客観的に合理的な理由」と「社会通念上の相当性」——これを裁判所が判断するとき、実際に問うのは3点だ。
- 問題行動の事実が記録として残っているか
- 改善の機会を与えたか(口頭ではなく、書面で)
- それでも改善しなかったという経緯が証明できるか
「記録がないと解雇できない」という言い方をよくするが、正確には「記録がないと、解雇の有効性を会社が証明できない」ということだ。裁判になったとき、証明責任は会社側にある。口頭注意だけでは、それが行われた事実すら立証できない。
なお、就業規則については、労働基準法89条により常時10人以上の労働者を使用する会社は作成と届出が義務づけられている。懲戒処分を行うためには、就業規則に懲戒の種別と手続きが明記されていることが前提となる。「就業規則はある」と「使える就業規則がある」は、まったく別の話だ。
企業の法律問題でお困りの経営者・法務担当者様へ
弁護士法人ブライトは、契約書・債権回収・労務トラブル・M&Aを伴走支援する「みんなの法務部」です。
弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。
書面ゼロから合意退職まで——3ヶ月の実際のプロセス
弁護士関与から最初の1週間は、土台を作ることに費やした。就業規則の懲戒規定を確認し、遅刻・無断欠勤に対する処分手順が適切かを検証した。出勤記録から遅刻と無断欠勤の回数を整理し、時系列で一覧表を作成した。
第1週の終わりに、最初の注意指導書を作成した。内容はこういうものだった。
令和○年○月○日(水曜日)、始業時刻10:00に対し、12:47出社。本件は今年1月以降7回目の遅刻にあたる。改善が見られない場合、就業規則第〇条に基づく懲戒処分を検討する旨を、口頭および本書面にて告知する。
社長はこの書面を見て「こんなに細かく書くものなのか」と驚いていたが、これが記録の基本形だ。日付、時刻、事実、回数、そして「今後どうなるか」。この形式が揃っていなければ、後から証拠として使いにくくなる。
第3週、面談を実施した。弁護士がシナリオを準備し、社長が面談を行った。面談では何を伝えたか、相手がどう答えたかを、その日のうちに書面で記録した。面談記録には社長のサインだけでなく、できれば社員本人にも確認させることが望ましい。ただし、このケースでは社員が署名を拒否したため、「社員は署名を拒否した」という事実そのものを記録に残した。
第6週、2通目の警告書を発行した。1通目の警告後も遅刻が2回続いていたためだ。ここで就業規則の懲戒規定に照らし、「次の違反では減給または出勤停止の処分が検討される」という旨を明記した。
第9週、合意退職の交渉に入った。弁護士が会社側のスタンスを整理し、退職条件の落としどころを社長と事前に確認した。最終的には、退職金に加えて約1ヶ月分の解決金を支払うことで、双方が合意した。
弁護士関与から合意退職まで、約3ヶ月だった。
企業の法律問題でお困りの経営者・法務担当者様へ
弁護士法人ブライトは、契約書・債権回収・労務トラブル・M&Aを伴走支援する「みんなの法務部」です。
弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。
この社長が最も後悔していたこと
合意退職が成立したあと、社長がこう言った。「なぜ記録を残さなかったのか、それだけです」
注意した事実はある。改善を求めた事実もある。それでも8ヶ月間、会社は何も記録してこなかった。なぜか。
「揉めるのが怖かった」と社長は言った。書面で注意したら、社員が反発するかもしれない。労基署に駆け込まれるかもしれない。だから口頭で済ませていた。
これは珍しくない心理だ。多くの社長が「書面で注意したら関係が悪化する」と思っている。しかし実際には逆で、書面を残すことは会社を守るためだけでなく、社員に対して「会社は本気だ」というシグナルを明確に伝えることにもなる。曖昧な口頭注意を繰り返すほうが、問題をずるずると長引かせる。
もう一つの後悔は、「相談が遅すぎた」ではなかった。「記録の取り方がわからなかった」だ。
この社長は弁護士に相談することを「最後の手段」だと思っていた。揉めてから頼むもの、裁判になってから使うもの——そう信じていたから、問題が深刻になるまで相談できなかった。しかし、弁護士に最初に相談すべきタイミングは「記録の取り方がわからないとき」だった。書面の作り方、面談のシナリオ、就業規則の点検——これらはすべて、問題が起きる前から整えられるものだ。
企業の法律問題でお困りの経営者・法務担当者様へ
弁護士法人ブライトは、契約書・債権回収・労務トラブル・M&Aを伴走支援する「みんなの法務部」です。
弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。
今この瞬間、会社に残っている記録を確認してほしい
問題社員対応において、顧問弁護士が実際に担っているのは「裁判での代理人」ではない。日常の労務管理の中で、記録を残すための「型」を一緒に作ることだ。
たとえば顧問先では、次のような使い方が多い。
- 注意指導書のひな形を弁護士と一緒に作っておく
- 面談前に「何をどう伝えるか」をチャットで確認する
- 就業規則の懲戒規定が「今の会社の状態」に合っているかを定期的に見直す
- 問題が起きたとき、「これは記録として十分か」をすぐに確認できる関係をつくる
証拠は、紛争になってから急に作れるものではない。「問題社員」という言葉が頭をよぎった瞬間から、記録を積み上げていくことが、結果として解決を早める唯一の方法だ。
今、手元に残っている記録を確認してほしい。直近3ヶ月で口頭注意を何回行ったか。そのうち書面が残っているのは何回か。その数字が、会社の今の状態を正直に示している。
企業の法律問題でお困りの経営者・法務担当者様へ
弁護士法人ブライトは、契約書・債権回収・労務トラブル・M&Aを伴走支援する「みんなの法務部」です。
弁護士歴平均15年以上のチームで、120社超の顧問先と日々向き合っています。






